できごと

私の暗い深い闇のところが癒える

 子どもの頃のことを決して語らない、これが最優先なことだった。
 本当に遺棄された子、人間がいるところでは、なぜこの人間が生まれここにいるのか、本当にわからない。
 知的の重度と呼ばれる人への安楽死についても連想したことがある。たぶん私の過去の、共に暮らした小さな子どもたち、そこにいたあらゆる子どもたちのことを全く触れる必要がないと私が麻痺していたことがあって、安楽死について考えたのだと把握する。
 最近、盲ろう者ノーマライゼーションという書籍を読んだ。p234の盲ろう者女性の言葉「私みたいのが、『方法は一つではないさ』とか言って、可能性に挑戦し始めると、あきらめていた人達がゆらぎはじめる」「自分が誰かから言われた経験があるからこそ、私達に向かって言う」とのこと。

 施設や母校には暴力があった。外の自由な世界から、これらの世界を見るのは厳しく辛い。
 あんなところに入れる命をなぜ産んだのか。さらには、幼い子が無雑作に捨てられている世界になぜ産んだのか。というこれらが一番、懊悩する問い。それを問えないままであったので、知的施設の重度と呼ばれる者への安楽死うんぬんの考えにわたしはなったのだと思う。だから、あんなところへなぜ入れた、産まねば良かったのに、と問えて良かった。小学生にもならない子たちについて悲しめるようになったのはごく最近だから。
 かつて目にしたものを、まず意識の上にあげようと思う。

 

 ・・・なぜその子を産んで捨てたのか。なぜ大人たちはその子を遺棄したままにしておくのか。なぜ私はすてきな親のようにその子に接し続けることができないのか、共に暮らしてたのに。なぜその子をナイトのように守れないのか、なぜその子に憎しみすら、わくのか。思いあまって、決してすべての子どもにかかわらない事を正義としたけれど、それで、それだけで、良かったのか。でも、それしかなかった気がする。私には声をあげる余地もなかったのだ。
 里親さんと子どもの気持ちが通いあうような物語の内容に実際にふれると、私の暗い深い闇のところが癒える。2017.11.1