悲哀が可能な自分になりたい
回想、
子どもが急に去ったり、
行方知れずになったりすることを悲しめない、
あるいは無理に悲しみや慈しみを表現しないとならない時のこと・・・。
『遺体』という本を読んでみている。遺体を運ぶ方は、日が暮れ、明日にさしつかえるから今日はここまで、というのがあるらしい。子どもだけの建物じゃ、その概念はないと思う。人生全部にさしつかえかねないと思う・・・。
小さな子が来たら、休みなくお世話しないとならない。でも本当は、プライベートな休息時間があってもよかったらしい。
好きなことを好きなだけ好きにやることを、
特定の子どもとして、特定の消えない大人に守られて、
自分のペースと行動と休息を、どうやら、持って良いらしい。
よき家族がおり施設を体験していなければ、同じ町の人や、他者の遺体にも、哀哭を持てるのだと思った。私にも家族がいて、家族が死ぬのは悲しいけれど、施設の子に対してはどうしても「ここはそういうものだ」と考えてしまう。施設の子の生き死にが悲しくなくて、次第に私の家族の生き死にも悲しくない感じになる。捨てられた子がむごい嫌な状況なのを、悲しむとしたら、切りがない。施設に対し大人の様々な考えがあって、情報が極端にない中、うごめいていないといけなかった。
遺体という本を読んで、比較するのじゃなく、「つながりがあれば、このように悲しいものなのか」「ちゃんと悲しめるようになりたい」と考えてみたい。津波の本で、ちゃんと読みたい本なのに、「悲しいものなのか?」と疑問をもつ自分を、どうにか悲哀が可能な自分へもっていきたい。施設の子に対しては、共に住むのに、つながりはなかった。親に捨てられた子は本当にむごい。そう考えるのに、なんの感じも持てない・・・。その子達に親が、特別な対象者がもたらされないままのことを、明晰に嘆いてみたくて。。。それは、個人的な自分をもたないと、できない。
概念にしろ実体にしろ、里親に出会えていないと、家族のいる大きい子の私は、「施設は、捨てられている子は、それしかないのだ。施設しかない。捨てられているしかない」と思うようになる。
小さい子に里親がいてほしい。書籍『ジョディ、傷つけられた子 里親キャシー・グラスの手記』では、8歳の子どもに対しキャシーが「施設に入れるには幼すぎます」と何度か強調していて、そんなに言ってもいいのか、と私にはおっかなびっくり。はっきり言うと、とても、嬉しかった。