できごと

つらさ

固有の育て親なしに、子どもが沢山の場所で小さな子が何年も暮らすのは、とても打撃だと思う・・・。私はそれを考えるのがつらい。

 

覚えるかどうかの愛着的な判断がつかないから、日々暮らす中で、大事な生活の内容、暮らし自体が積み重なっていかない・・・。一緒に暮らす人は全て入れ替わるので、食事作りのための食品をいつも同じ親が買って冷蔵庫へ入れておくこととか、残り物を次の日に食べたりすること、一緒に買い物に行って違うパンを選べること、本人の裁量でまとめて作ってお弁当にすることを知らない・・・

 

何が食べたいか聞かれて通ることもなく、子どもの心身が欲する食べ物を融通を利かせて多くもらうこともなく、調子が悪い時にすぐ、湯たんぽや氷枕や生姜湯や今食べられそうなものに変更してくれる事もない・・・もしかしたら危ないという理由で自分のハサミもない、

必要な好きなものをスムーズに個々人が買えることもない、目覚まし時計や家の時計を直す固有の大人を見ることもなく、いつの間にかに部屋の品物が入れ替わっていて機械的だったりする・・・知らない子と一生懸命暮らすのが一つの生活だと思ってしまう、でも知らない人と一つ屋根の下で寝起きする生活は、通常は無い・・・

固定の大人が石鹸やティッシュやシャンプーなどの日用品をしまう場所を見て覚えて、自分で出したり詰め替える裁量ももらえない、靴箱が決まっていて、自由に置いていい通常の家の玄関とも違う・・・

 

湯たんぽを使わせてくれた人へ何か気持ちを向けても、その時にはいなかったり、担当じゃなくなったり、退職していたりする。湯たんぽの記憶は残らない。大人側も、特定の人が見守り続けるなら、子どもが湯たんぽで調子が良くなったか見極めやすいし話も簡単につながるが、時間で人が変われば、湯たんぽや、少々の子どもの体調や、お礼の気持ちなど、小さな無用なことになってしまう、いざ本当に大きめの出来事があった時なども、把握できなくなってしまう。

 

何か日常的に大変な目にあった時(服がほつれたり毛虫に刺されたり食べ合わせで吐き気がある時)や、分からないことを聞きたい時、話したい時、通常子どもは親に言ってすぐに対処しやすいけれど、大人の誰に何を言って頼っていいかわからなくなり、言葉がなくなる。

自分で自分を育て、ほつれや毛虫や食べ合わせ、そのほか小さいことから大きいことまでを自分1人で対処するにはとても力が要る・・・

誰が誰を殴ったかわからなくなるほど大勢で暮らすし、子ども達から離れて逃げ込める静かな空間はない・・・それと通常の家庭のように少数でないから、沢山の子ども一人ひとりに何が起こってるのかわからなくて、怖い事がたくさんあった。教えてももらえない。毎日隣にいる子に手探りで対処する・・・。

長い歳月を共に暮らしてくれる固定された里親さんが増えてほしいといつもいつも思う。小さい子が数人暮らす里親宅に、難しい状態の少し年上の少年少女が来ると、年上の子達が退行しにくく、少し年上だというだけで我慢を強いられやすく、小さい子は萎縮するかもしれないから、それを踏まえてもっと、里親さんが増えてほしい・・・