あじさいと海の写真を現像しに行きたいです。

たぶん、被害と加害の境界線

 子どもだけがわらわらっと暮らす生活で、差し迫った感じでまとわりついて要望してくる子どもに、私はほかの年上の者や大人のほうへ行けばいいのにと漠然と思ってしまっていた。

 

 私は見たくなかった…研修を受けた者や里親でもないのに、沢山の子が、世話するかもしれないぐらい近くに居る事。時にはキャパを超えた要望をされる事…。必死に私は避けていた。

 今では、望む子(必要な子)はすべて、よき里親家庭、養育家庭へ迎えられてほしいと思うようになった。定期的にそれぞれ子どもの気持ちを聞いて、このような里親家庭、養育家庭がある、と行ける場所を示してほしかった。(この文章は、私にとって言ってはならない言葉になってしまっている。)

 

 私はいくつかの場面で、とても驚いて…うろたえた・・・年上の人にも年下の人にもかかわるゆとりはなかったけれど、特に年下の子どもが、追いかけてくると、パニック状態だった。とても苦悩する。来ないで、と思っていた。それだけでとても対応などできなかった。加害をしない戦いをし続けた、自分の魂を破壊させてもかまわない、すぐそばに住まう小さな子、弱い子にあらゆる危害を、暴力を、連鎖しないように律していた。

 ここはこういう子どものいていい世界ではないのでは、と漠然とショック状態だった。こういった言葉を言えるようになるまでかなり時間がかかった。

 

 たとえば私は居たくなかった、と告げるとほかの子ども達をないがしろにしている気持ちになる。ほかの子も望む子は全て、と言う時には、望まない子ども達をないがしろにしている気持ちになる。

 望む子は全て、と言う時、言葉が出ない幼い子どもを放置している感じになる。幼い子は全て、と言う時、年上の子ども達のことも深い気がかりになっている。すごく言い訳がましくなってしまう。
 私個人の場合は、入りたくなくて、昼食をはさんで長い時間、入りたくないと繰り返し述べてた。今の大人の状態でも、もし体が子どもになってもう一度入れられてしまったら、私は加害をするだろうという確信がある。それは絶望的なことで…
 だから、すごく利己的な気がするけど、入るかどうかの段階で、委託のないいくつかの里親家庭も示してほしかった。


 私は児童虐待犯だと書かなければ、秘密ごとを持っている気がしてしまう。(子どもの頃のどうしても隠したい事は、隠しても暴露してもならない葛藤がある事……被害認識も加害認識もない事、被害認識と加害認識ばかりな時間の事かも。)

 連鎖をしないように耐える戦いを子ども達はしていると思うから、(丸投げの意見だけど)何かのご縁で里親登録や研修をして下さってる方に、どうかあの子のような子どもを、迎えてほしいって思う。これからも少しずつ委託は増えていくと思うし…

 

 以前、これからもいろんなところへ出かけようね、人生を喜ばしいものにしよう、と委託の子へ語りかけている文も読んだ。私が自分を育てるにあたっても、心のかよう色んな里親家庭や養親家庭の話を読めたのはとても良かった。そのことが自分の人生をひたして、一生分、連鎖をしないよう果てない戦いを戦ったことが報われた気がする…