できごと

裁判員でも刑務所の人でもないのに判決と懲罰を見させられた時の感覚。(体罰をやめてほしい理由)

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大人が来て、
子ども10人ほどがぶたれるために選ばれて、教室の前に並ばされる時の
死神に命を引き抜かれる感覚を、歯を噛みしめて堪える時間とか、


教員が選び終えた後の、自分が呼ばれないことがわかった瞬間の体の異常な安堵感、脱力反応、「私でなくあの子らで良かった」という感じとか、


指導が納得のいく理由でも、
並ばされた子どもの生気を失って虚ろな、やさぐれた、よどんだ人形のような瞳が
時おり私たち椅子に座る児童生徒のほうに向く時、
「お前ら馬鹿だな」というような目つきと笑みになってたり、
孤立してすでに死んでいるような目つきになってる一瞬を知ってしまった時の
わけのわからない体の焦燥感、火照り、息苦しさ、動悸……。

 

それを今でも覚えてるから、体罰はいや。

 

 


ぶたれるまで息を潜めて待つ。

全身の圧迫感。

逃げ出したい体をどうにか抑えて鎮めてパイプ椅子に座り続ける。

こうなると授業など始まらない。


大人の決めた好きな時間に体罰は始まる。その前に指導してた言葉は忘れちゃった。
始まった瞬間、ぶたれてる子は別なのに、私の体にも熱さが走り、
体が熱いのか痛いのか、怯えてるのか、指導の熱にあてられて浮かれているのか
わからなくなって、体の動機や震えや反射的な動きをとめられなくなる。


そのうち、
これは血ではなく指導、
これは倒れているのではなく指導、
生きている体でなく物質、別に何もおかしい事は起こっていない、
と都合よく解釈するようになっていく。震えていた体がいつのまにか落ち着いて、耳元の心臓の速い音もしなくなって、ぼーっとしている。

 

これは私の場合で、ほかの子の事はわからない。


痛くなくて、苦痛でも怖くも恥辱でもなくて、別になんてことなかった場合だってある筈。

 

血は少しだけ、椅子が飛んだのも少しだけ、と最近まで自分に言い聞かせてきたし今も考えてる。


でも、もし有能な弁護士がついてくれていたら、
子どもたちはそれぞれ皆、体罰指導の判決を受けずにすんだ
筈だった。絶対に冤罪の児童生徒達がいたと私でも思うもの。

 

だから裁判員でも刑務所の人でもない児童生徒の前で判決を下したり、懲罰を与えないでほしい。裁判官でも警察でもないのに、罪や罰を指導と称して勝手に決めないでほしい。