できごと

私の暗い深い闇のところが癒える

 子どもの頃のことを決して語らない、これが最優先なことだった。
 本当に遺棄された子、人間がいるところでは、なぜこの人間が生まれここにいるのか、本当にわからない。
 知的の重度と呼ばれる人への安楽死についても連想したことがある。たぶん私の過去の、共に暮らした小さな子どもたち、そこにいたあらゆる子どもたちのことを全く触れる必要がないと私が麻痺していたことがあって、安楽死について考えたのだと把握する。
 最近、盲ろう者ノーマライゼーションという書籍を読んだ。p234の盲ろう者女性の言葉「私みたいのが、『方法は一つではないさ』とか言って、可能性に挑戦し始めると、あきらめていた人達がゆらぎはじめる」「自分が誰かから言われた経験があるからこそ、私達に向かって言う」とのこと。

 施設や母校には暴力があった。外の自由な世界から、これらの世界を見るのは厳しく辛い。
 あんなところに入れる命をなぜ産んだのか。さらには、幼い子が無雑作に捨てられている世界になぜ産んだのか。というこれらが一番、懊悩する問い。それを問えないままであったので、知的施設の重度と呼ばれる者への安楽死うんぬんの考えにわたしはなったのだと思う。だから、あんなところへなぜ入れた、産まねば良かったのに、と問えて良かった。小学生にもならない子たちについて悲しめるようになったのはごく最近だから。
 かつて目にしたものを、まず意識の上にあげようと思う。

 

 ・・・なぜその子を産んで捨てたのか。なぜ大人たちはその子を遺棄したままにしておくのか。なぜ私はすてきな親のようにその子に接し続けることができないのか、共に暮らしてたのに。なぜその子をナイトのように守れないのか、なぜその子に憎しみすら、わくのか。思いあまって、決してすべての子どもにかかわらない事を正義としたけれど、それで、それだけで、良かったのか。でも、それしかなかった気がする。私には声をあげる余地もなかったのだ。
 里親さんと子どもの気持ちが通いあうような物語の内容に実際にふれると、私の暗い深い闇のところが癒える。2017.11.1

子供達だけに密かに独房と呼ばれてる部屋

2017.10.15のリアルノートより
 
 ・・・あるときまた、子ども何人かの取っ組み合いがあった。すごい声、罵り合うような叫び声が続いた。

 

 わたしははらはらして・・・それは廊下あたりで起こっていた。居間の方かどこかにわたしはいて、急だったので竦んでいた。こういう場所ではどうしようもなく、しばらくぼんやりうろたえていた。初期の頃わたしは「ここは魔物の館?」みたいにショックを持っていたけれど、もうこの取っ組み合いには慣れっこになって、麻痺して、固まっていたけれどよくあることなのだと考えつつあった。

 

 しばらくすると、どこからか(覚えてない)大人が現れ、そしてとにかく魔女狩り裁判のようになった。それで、何人かの大人と、何人かの子ども・・・避けるやりとりが始まる。

 

 その時わたしはもう知っていた、こうなった時誰かが、子供達だけに密かに独房と呼ばれている部屋へ入れられることを。それはちょくちょく〜時折あったのだ。独房の定員が一名だともすでに知っていた。それで、避けることが・・・行われる。

 

 その場の全員、「一体どういうことなの、誰が原因なの?」という話にはいっていく。わたしは近くですくんでた、「さあ、どういうことだか・・」というような雰囲気で首を傾げていたと思う。


 そして今思えば、一番あれこれ、独房へ入らないために「鎮まりなさい、この子があれこれしてきた」「この子がこうしたんじゃない?」と話ができない子が呼ばれるのだ。パニックになっている感じがする。怯えながらひっぱり出され、床に倒されたか倒れたりして、その体勢でひっぱられたために頰か肌が、床にこすれて聞きたくない音をたてていた。その子が部屋に入れられ、わたしは、とてもほっとした。

 

 それを、書かなければ・・・・・・いけない。その子がしょっちゅう入っていれば、わたしは入れられないことを、わたしは多分どこかで知っていた。

 

 独房に入らないために誰が何をしたか、入らないためにわたしがどれほど避けたか、どれほど無雑作にそれが行われたか。ちゃんとした大人に来てもらい知って欲しかった、それと同時に、わたしのしたことを知られたくない気がする。この話は狼狽えながら書いたため、いつかもう少しだけでも動揺していない言葉で表現できたらと思う

 

 まず長い期間、度々、わたしは「わたしがそこのベッドを一つ使い、時折独房へも入ったことで、他の子どもがそういう目に遭わなくてすんだのだ」という思考をしていた。それはOKな思考だった、わたしには何も問題なかった。なのに、誰かが入っていればわたしは入らなくてすむというような思いになるなんて。
★特に最後の段落は後でもっかいなんか書きたい回想したい内容がある かなり書き直したがってるから

施設経験者のうち何人がこれを読めたか

家庭養護促進協会「育てる」No.54
p2より。

 イギリスの統計では、施設入所期間が2〜5年は7%、5年以上が1%と非常に短い。里親ケアでさえ2〜5年が12%、5年以上が9%と、短期間で実親家庭や養子縁組家庭に移行しているのが実態です。一方、日本では児童養護施設に3年以上入所の子供が61%、17,800人。福岡市も57%で、申し訳なく思いました。長く児童養護施設に入所している子どもの中で乳児院から継続しての子どもが30%。一度も家庭で過ごす経験がないまま大人になる。大体3年以上入所すると、結局18歳まで継続することも明らかになっています。
(引用終わり)

 居住型施設経験のある者たちのうち、何人がこれを読めただろうか。
 上記はインパクトのある部分、長期入所が日本はまだまだ多すぎる、と書かれたところを切り取ったのだけど、「育てる」を読んでいくと、わたしは、気持ちが休まる・・・。大人が子どもを長期施設入所させないためにしている数多くのことが、書いてあるから。早くに知りたかった、誰かがわたしのところへ来て、教えてほしかった、言ってほしかった。わたしが里親に関しての機関紙などを読みたがるのは、自分育てのため、自分に足りなかったものを探すため。施設入所したことのある者達、長い施設暮らしをした者達に、「育てる」のような情報が不要な者、必要な者は、どのぐらいいるのか。わたしのように大人になってから迷い、里親について学び始める者は、どのぐらいいるのか。p27には、全国の児童相談所にも送付とある。

「あれら」の出来事と、トイレに関連したこと

あれらの出来事

 

 恐ろしくておぞましくて崩壊するような、子ども時代のとある出来事のいくつかの場面でわたしは気持ちよかった。
 恐ろしくて脱獄を切望していた。暗い影を化け物、怪物、魔物のように実体験している。そして崩壊しそうだったのと同時にとても気持ちよかった。

(おそらく生き残りの手段だったに違いない、様々な意味で。今ふと思っただけだけど。)(こういう把握はよくするけどすぐ消えている。このカッコ内は読み返して付け加えてる。)

 ここまではシンプルな被害なのでOK。


トイレに関連した出来事


 別の時、トイレへ行くのは非常にプレッシャーだった。トイレへ、どうしても行きたくなかったのを覚えている。とても、嫌だった。

 

 言ってはいけないこと・・・
 ちょくちょく、何人かの子がつきまとってきた内容を、意識の上にあげて、取り乱さずにもう一度思い返してみることは、ずっとしたことが無かった。いつも何人かの子が私(やほかの誰でも)につきまとっていた。数人、全て年下の子だった。誰だかうろ覚えな子どもたちもいて、それをとても苦痛に思う。(覚えてれば考えていけるのに混じっているところは思い返して検討すらできない事がとても、とても苦痛。付け足しメモ)

 

 ある子が、ある時期、居間(ホール)や食堂や廊下や浴室やトイレなどについてきた。私は、逃げ回っていた。・・・うまく書けない・・・

 

 誰も来ないことを見計らってトイレへ行くようにしていた。なのにある女の子は、私についてくる。トイレは、安全な場所ではない。今私は明確に加害者として書こうとしてる。けれどふと思ったのは、その子も安全では無かったから一緒に来ようとしていたのか、どうなのか?といった内容(この瞬間まで一度も自覚しなかったのでメモ)。

 

 誰も来ないことを真剣に、恐れつつ、見計らってトイレへ行くようにしていた。何かが・・・具体的なものがあったわけじゃない、でも、私やおそらくその子たちがトイレへ行く時、安全感が皆無だったのは確かだと、把握しておきたい、あいまいだけど。

 

 最後にもう一つ、2017年10月21日まで関連付けてこなかったこと

 

 私がどうしてもトイレに行きたく無かった、嫌だった、
 そのことと、
 とある低年齢のこどもが食堂の方につながるある廊下で繰り返しトイレをして、それを散らかし投げていること。
 
 これをやっと関連づけるようになった。その子もトイレへ行くのが苦痛だったのではないかと考えるようになった。今までは感情がなく、この記憶は、悲しみや感情の伴う記憶ではなかった。私はその子に何か問題があるのかとずっと思っていた。もし大事に家族・里親家族のところで育てられていたなら、と思う。
 
 ここは私だけの安全な場所・・。書けてよかった、と思う。

 

 書くまでに至る背景は、2015年冬以降〜に下記をやっと読んだ事。
「あたらしいふれあい1」p121、p216、
「あたらしいふれあい2」p54、555
里親さんに引き取られた、ずっとトイレにもついてきたりするこども

特に「あたらしいふれあい2」p247
里親さんとずっと居たがりトイレへもついてくるこども

「僕がほしいのはパパとママと釣りざおだった」p141
シャワー嫌いやトイレを「目もあてられないほど」汚す12歳くらいの子どもが
p291「ちゃんと、ケツも、拭けるように」なるまで。

 

そして
「こどもの声 里親家庭・居住施設で暮すこどもの意見表明」
バーバラフレッチャー著
 この626人の様々なこどもの声を、
 読みたくないけど読みたくてなんとか、やっと、少し読み進めた事。
 これらを読んでやっと言葉になった。私が言葉にするわけは、あらゆる意味で人間らしく生きることを模索する過程で、強くつまづく何かがあり。私の場合は、子ども時代の出来事を見ない言わないままにしてる事が、人として生きる事を妨げていると思ったから。

 

たぶん、叫び

 想うに・・・子ども集団で寝泊まりする場では、誰にでも必死に(テキトーに?悲)つきまとう、安全感を持たないとししたのこどもが居ると思う。全く人に近寄らないクールな子が居ると思う。里親さんのもとに引き取られたこどもの幾人かは、里親さんだけにつきまとう。(最初は付き纏わないかもしれないし、誰にでもかも。でも、)里親さんのもとでなら安全感をはぐくめるこどもが少なからず居ると想う・・・・・・。
 自分の加害について書こうともしたけどずれた。

ある年下の女子の部屋へ行った事

書いた日2017.9.30

 子どもの頃、年下の子が私に言った。「私のお部屋に来てよ」と。あやういリクエストや密談やsosや必需な要望ではなく、言われたのは一緒に漫画を読もうとか、一緒に話そうとかそういうものだったと思う。私はその子が今まで話したかどうかも覚えてないような年下の子だったので、はっきり断った。でも同じ一棟に暮らしているので、何日かかけて7回ぐらい話しかけられ続けて、折れた。
 うるさいと思ったことを、どうしても書かないといけない、実際の気持ちだから。年下の子どもをこのように、こんなにもうざったいと思うなんて、一体どういうことなんだろう。(外の世界でおとなと子どもをこのようにうるさいと思った事は無い‥なので、内部の世界、この場所での子ども達、限定での事なのだとおもう。2017.10.25付け足し)

 それで、その子の部屋へ行って、一緒のベッドに座って。別に何か起きたわけでは全然ない。りぼんとか?の少女漫画を読んで、雑談して。でも他人だから、私も子どもだから、適切に関われない。私はテキトーに頷いたりするだけだった。早めに、もう自分の部屋戻るね、って言ってその子の部屋を出た。

 私は断言できる、私は決して子どもへ向かっていかなかった。抑制しきった。子供達が私のそばに来て、ひどく怯えた様子で、sosを表現していたとすら思うときがあった。けれど私はその時もひたすら引き下がった。私には適切な分別があった。
 そして、でも、数日後、彼女が別の子の方へ向かって行き、壮絶な争いを繰りひろげるのを見て、私は私の抑制などどのような正義でも守護でも無かったことを、思った。

*できたら文章を変えないこと
2018.1.16読み直してブログに書いた日

委託率が50%ほどになってる静岡県の市

 虐待、加害の連鎖については、2017年5月ごろにリアルノートにかなり書き殴ってる・・・あるページは、「喰い合い」と書いてる。虐待した・虐待していない、この感じが交互に来る。「頭の中で、体中で、警報が鳴っていた」、とたびたびノートに綴ってある。


 2017年5月30日のノートに、里親と子どもたちの世界の記録の書籍や、全てのそれらに関するサイトを見るのが、辛く苦痛だと書いてある。そしてかなり迂回してる。無関心になりたくない…

 私には施設で暮らす、4万人ぐらいのうちの、約半数ぐらいの、5才前後以下の子が、賽の河原にいさせられているかのように感じる。

 私も、賽の河原、あちら側を垣間見て、二度と戻れなくなるんじゃっていう激痛を感じる。そして私はあちら側の者ではないっていう、私の心の中の差別と闘わないといけなくなる。(わたしには耐え難い戦場を見て、逃げ帰り、わたしはとにもかくにも家に逃げ帰れたけど、そうじゃない本当にそれが不可能な子の事を、逃げ帰ったわたしがどう把握したらいいのか。)


 2017.6.9のノートより写し。
 何か書く時に、何かを非難せずに書けるのか、が私には重要だったみたい…。気を付けなきゃ。

 里親制度を語ると、施設に入りたい子どもを虐げてる気がしていた…。
でも最近は考えが変わるようになってきた。無くしてしまう前に書き留める。里親委託率が50%ほどになってる静岡県の市のことをおもうにつれて。

 きっと、里親制度が充実すれば、里親のところで一人ひとりの子どもに
目が届いて、施設は施設が必要な子どものみの入る所になっていくかもしれない。私のように、急激に引き離され、準備なく、より小さい子と暮らす重圧に負けて加害に至ってしまう子どもも減るかもしれない。長期入所する子どもが減るかもしれない。国会図書館で海浜留学里親を知った。私のような大都市でへとへとになった子どもにはこれは良かったかもしれない。

 委託率50%の日本の市があることで、色んな都道府県の大人達も、無理なく肩身狭くなく里親制度を発展可能かもしれないし。海浜留学里親をする大人が、里親制度とつながるかもしれない。国会図書館で読んだ資料にはその海浜留学里親と本来の里親制度の里親が明確にわけられていなくて、わたしはまだ把握しきれていないけど。里親制度が周知されたことで逆説的に、なんとか様々な支援を見つけて赤ちゃんが家庭にとどまれた件が増えた話も読んだ(たしか書籍「里親と子ども」、巻数忘れ)。津崎氏「この国の子どもたち」のイギリスのウォリクシャ県でもそういう文があったと思う。

 

 目の前の子の苦痛を取り除きたかった。自分が確かに相手に苦痛を与えた時もあったにもかかわらずそんなことを思っていた。大人になってしまったら、里親制度にくるまれることはできない。

 私は里親になろうとした事はなかったが、子どもの頃に実体験したかった気持ちを引きずるあまり、スムーズに結婚して里親の勉学がしやすくなるのなら、結婚したいと極端な思考をしたこともあった。対人があほですぐ断念したけど。元子どもの私がかつて、何を得たかったのか、なぜ被害に遭い加害をしたのかを知るために入っていける勉強場所は少ない。

 ウォリクシャ県の事を最近やっとのことで読んでる、この本は…こどものころにわたしが読みたくて、言ってほしかったことが書いてあるので。

何があったのか把握したい

 虐待、加害の連鎖については、2017年5月ごろにリアルノートにかなり書き殴ってる・・・あるページは、「喰い合い」と書いてる。虐待した・虐待していない、この感じが交互に来る。

(話せない事が2つほど。この2つがあって私は、)こどもが何をされててもしかたない、そこがそういう所なのは、ままあることだ、と思うようになっている。


 なんとか言えることは・・。私には、小さな子にも年上の子にも、ゆったりとした歳月をともに暮らす、その子どもだけの大人がいないのではないか、と把握したいのに、そうは考えにくくて、人の子として、私自身がその子ども達を思いやることができなくて涙が出る。


「頭の中で、体中で、警報が鳴っていた」、とたびたびノートに綴ってある。書いて、やっと思い出して気づいたような気がして、でもそれを以前も書いていた、というのがよくあるみたい。メモを短くまとめて何を繰り返し綴っているのか把握して、同じことを繰り返しノートに書かないようにしたい。

小さな子に私がなんのいたわりの心も無かったこと…

 虐待、加害の連鎖については、2017年5月ごろにリアルノートにかなり書き殴ってる・・・あるページは、「喰い合い」と書いてる。虐待した・虐待していない、この感じが交互に来る。

 わたしはほんとに、あのちいさなこどもに対して、何の慈しみの心もなかった・・・。とても恐ろしいことに、ちいさなこどもの様子をみていると、内心で警報が鳴り、ずっと放置している気分になった。

 

 わたしは、ちいさいころに、「あなたの心配している、あの何人かのこども。その子たちには、必要に応じ、短期でここを出られるよう、里親制度があり、あなたがたが互いに世話しなくてもよいよう、養育者が探されている」と大人から教えてもらいたかった。

 来る子のお世話を考え、無視するしかなかったのが、わたしには本当につらいことだった。こどものわたしが、別のこどもを世話するなどできない。

たぶん、被害と加害の境界線

 子どもだけがわらわらっと暮らす生活で、差し迫った感じでまとわりついて要望してくる子どもに、私はほかの年上の者や大人のほうへ行けばいいのにと漠然と思ってしまっていた。

 

 私は見たくなかった…研修を受けた者や里親でもないのに、沢山の子が、世話するかもしれないぐらい近くに居る事。時にはキャパを超えた要望をされる事…。必死に私は避けていた。

 今では、望む子(必要な子)はすべて、よき里親家庭、養育家庭へ迎えられてほしいと思うようになった。定期的にそれぞれ子どもの気持ちを聞いて、このような里親家庭、養育家庭がある、と行ける場所を示してほしかった。(この文章は、私にとって言ってはならない言葉になってしまっている。)

 

 私はいくつかの場面で、とても驚いて…うろたえた・・・年上の人にも年下の人にもかかわるゆとりはなかったけれど、特に年下の子どもが、追いかけてくると、パニック状態だった。とても苦悩する。来ないで、と思っていた。それだけでとても対応などできなかった。加害をしない戦いをし続けた、自分の魂を破壊させてもかまわない、すぐそばに住まう小さな子、弱い子にあらゆる危害を、暴力を、連鎖しないように律していた。

 ここはこういう子どものいていい世界ではないのでは、と漠然とショック状態だった。こういった言葉を言えるようになるまでかなり時間がかかった。

 

 たとえば私は居たくなかった、と告げるとほかの子ども達をないがしろにしている気持ちになる。ほかの子も望む子は全て、と言う時には、望まない子ども達をないがしろにしている気持ちになる。

 望む子は全て、と言う時、言葉が出ない幼い子どもを放置している感じになる。幼い子は全て、と言う時、年上の子ども達のことも深い気がかりになっている。すごく言い訳がましくなってしまう。
 私個人の場合は、入りたくなくて、昼食をはさんで長い時間、入りたくないと繰り返し述べてた。今の大人の状態でも、もし体が子どもになってもう一度入れられてしまったら、私は加害をするだろうという確信がある。それは絶望的なことで…
 だから、すごく利己的な気がするけど、入るかどうかの段階で、委託のないいくつかの里親家庭も示してほしかった。


 私は児童虐待犯だと書かなければ、秘密ごとを持っている気がしてしまう。(子どもの頃のどうしても隠したい事は、隠しても暴露してもならない葛藤がある事……被害認識も加害認識もない事、被害認識と加害認識ばかりな時間の事かも。)

 連鎖をしないように耐える戦いを子ども達はしていると思うから、(丸投げの意見だけど)何かのご縁で里親登録や研修をして下さってる方に、どうかあの子のような子どもを、迎えてほしいって思う。これからも少しずつ委託は増えていくと思うし…

 

 以前、これからもいろんなところへ出かけようね、人生を喜ばしいものにしよう、と委託の子へ語りかけている文も読んだ。私が自分を育てるにあたっても、心のかよう色んな里親家庭や養親家庭の話を読めたのはとても良かった。そのことが自分の人生をひたして、一生分、連鎖をしないよう果てない戦いを戦ったことが報われた気がする…

争いの記憶の洗い出し、2017年5月頃

 最近は、子どもの頃何があったのか本当に知りたいと思うようになった。いくつかの場面で、年下の子どもが繰り返し私にまとわりつく時があった。
 私はこの子どもだけの暮らしが嫌で、たぶん許容量を超えていたので、
それを自覚しないまま全ての子とかかわらないようにしていた。

 罪の償いはこの人生では不可能だと思い始めた。私は言い訳をしている、繰り返し、トイレやお風呂にまでまとわりついてきて、逃げても離してくれなかったと。私はトイレのドアを必死に閉めようとして取っ組み合った。その手の感触が残っているけれど、恐ろしいことに、取っ組み合いははっきり記憶していても、殴ったか蹴ったか、ドアがあたったか等回想しようとしてもそのつど違って、憶えていないっていう壁に突き当たってしまう。

 追いかけてくる年下の子どもから逃げ切れる時もあった。
 執拗だし、さらっとしていた。今も苦痛なのは、その子は別の子たちのほうへ向かい、激しい争いになったのを見た事。
 私はフォスターファミリーの制度は重要ってことに強く頷く。(2017.5.16のノート)

 2017年冬頃のノートには過去を回想してて、ある小学生の女の子が罰を受けていて宙に浮き、床に倒れて、叫び声がした、と書いてある…
 この場面は繰り返しノートに書いてあって、その都度、とても怖いとか、感情が湧かないとか、麻痺や、陶酔の感覚のことも、書かれてる。
 何があったのか知りたい。

(2017.6.28に読み返したら、全然実感がない。実感が持てない事は、たとえ、子ども達がなにかむごい目に遭っていたとしても、見つめることのできる状態じゃないんだと思う。)

捨てられた子どもと建物内で住むことは保護された子どもの心的外傷になると思う。

捨てられた子どもと建物内で住むことは保護された子どもの心的外傷になると思う。

 

たとえば4、5歳のころから何年も施設にいたとしたらわたしは、どうなるだろう、わたしはあの場所に一時期いただけで、幼子がそこに居続ける社会とはいったい何なのか、戸惑ってしまった。そこにいる5歳ぐらいの子、数歳の子、何年も居る子っていったいどうしてなのだろう。専門家の言葉の力が届いてない。

 

専門家は口々に、施設に長くいるほど、障害をもたらすと語っている。(これとは別に、児童間暴力も、傷ついた未成年が集まり寝泊りすればごく自然に起きるとされている)でもそんなことは、公然の秘密なのかもしれない。でもわたしが単にまだこわがっているだけかもしれない。


一時期しかいなかった子どもは、里親家庭、養育家庭を語りにくいかもしれないけど、誰でも里親家庭、養育家庭を応援していいと、考えていこうと思う。誰であれ、子どもだったのだ。一時期だけ居た者は、部外者ではあるけれど、もしも自分が長くそこにいたら、と考えてみて良いと思う。


もしも、自分が長くそこにいなければならなかったら、すぐにでもあたたかな家庭を教えてほしかった、と考えて良いと思う。言える子、言えた子に嫉妬心がある。

3、4歳の子は語れないだろうから、専門家の言葉をいつか引用してみたい。

 

わたしが3、4歳だったら(乳幼児だったら、そして何歳であっても)、早くあたたかな里親(養育家庭)、ただ一人の消えうせない大人に迎えてほしかった、そのように語る大人達に出逢いたかった。わたしは子どもっぽいため、もし神さまがゆるして下さるなら、一時期いただけの年上のわたしでも、里親さんにひきあわせてほしかった、里親さんの世界を学ばせてほしかった。その気持ちを、めげずにもち続けて書きたい。2016.12.17

里親さんを知りたかった子どものわたしについて

子どもの頃に里親さんを知りたかった・・・

 

 今も、里親に関する情報/サイトを見たいのに、そこは自分の行っていいところじゃないと思ってしまい何日も見られない時がある・・・。子どもの頃に感じた火あぶりを連想する。

「どうして子どものころに教えてくれなかったの?子どものころに分かりやすく教えてくれていたら、わたしは里親さんの講座へ行って、わたしの里親さん(短期でも)を探して下さい、と言ったのに。何度でも行ったのに。」

 たびたび、わたしの叫びの言葉は、色んな人を批判しているのではないかと感じてしまう、なんでだろう。。

 

 里親さんを応援してくれている色んな人だっているのだ。もう、火あぶりなど連想しなくていい、自由に文章を書いていいのだ。わたしの言葉は、わたしの心、わたしの想い、わたしの祈りだ。

 火あぶりを連想してしまうより、色んな人の祈りをもっと感じとろうと決意。実質、火あぶりの連想と人の祈りを感じる真剣な時間の、どちらに真実重きを置いているかと内面を調べると、わたしは自分の浅はかさを見つける。

 どこにいても人を批判せずに里親さんを応援する方法が、もっときっと沢山、豊かにあるに違いない。そのフィーリングに包まれようとおもう。わたしは、まだ、もういまは不要な怯えの中にいる。

 

どうぞ里親さんのサイトへ行ってみてください。
里親さんの活動について、お知り合いの方と話してみてください。

子どもをひきとってくれた里親さん、ありがとう。

だんだん、わたしは、
里親さんの話を聴いたり、読んだりするようになると
落ち着くようになった。

 

とても落ち着くの…かつて絶望してた子どものわたし、

幼い子の虚ろな目をまじかに見ながら何もできなくて絶望してたわたしは

やっと育って、里親さんがいるって知ることができた。

(きっとわたしは幼い頃に知りたかったものを今、自分で満たしているのだ。)


里親さん、養親さん、施設暮らしの小さな子をひきとり
長期養育を考えてくれる大人達がいるってやっと知ることができた。

 

(その人たちは必要なら産みの親を誰より弁明してくれる。必要ならともに葛藤し、

世の中を批判もし、建設的に考えてもくれる。ひきとられた子どものまるごと全てを、

支持しようとしてくれる。その子どもに対し、ひとりの人間の子どもとして接してくれる。)

 


それまで永い時間だった。

 

里親さんが自然体で、引きとった子どものことを考えてくれるのが嬉しいの。

里子さんに対しては、わたしは、遠くにいる一人でしかないから、

周囲の人が、里子さんのこと、施設にいた子どものこと、沢山考えてほしいと

思っている。その子どもを一人の人間の子どもとして。

 


わたしは自分がどのような人間かよく知っているし、

そして別の子どもはわたしとは違い、その一人ひとりは、

それぞれ違った特有のひとなのだもの。

 


その子ども自身を生涯、そっと見つめてくれる

変わらない固有の育て親の実在が、その子にあってほしい。

少数派でもいい。


わたしは年上の子。かつて
小さな子どもが少しだけ伸ばした手から通り過ぎてしまった・・・


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ふっと気持ちがわいてきたので即興で上記、書いてみました。あとで写真でもつけられたらいいのだけど・・・

産みの親御さんの、里親が里子に対してする弁明についてはまた何か書いてみたい。書籍では、配慮しながら、適切に肯定的に、自然体で里子に対し伝えていた。

 

 

里親さんのもとで、はじめの動き出した時間。

 ドラマ「はじめまして、愛しています」のはじめほどではないけど、施設では、廊下ですれ違う時にしがみついて噛みついて来る子は、実はいた。

その前後のエピソードはゼロだけど。

 

その子どもの名、年、顔つきも覚えていない。

 

同じように噛みつく子どもでも、決定的な違い。

 

はじめは、新しいお母さんになってくれるひとに噛みついた。

どんな葛藤が苦しみがあるにしろ、

 

通りすがりのちょっと年上の子どもの私などには決して不可能な事が

新しいお母さんには、出来るのだ。

 

はじめのような小さな子の苦しみ、それを小さな子がたとえわたしに表現してくれたとしても、通りすがりの、建設的なところが無いものなんだと思った。

 

はじめが噛みつきのような、苦しみの表現を、

ずっとそばにいてくれるあたらしいお母さんに出せて本当に良かった。

 

はじめの時間は、動き始めたのね。

絆のための戦いを描いてくれている。ドラマ「はじめまして、愛しています」

諸事情で2話めから観ています。2話めの感想。

 

 このドラマでは、このひとりの子に焦点をあてて(実際にあり得る)物語として考え学ぶ事が出来る。実際に身近にある物語として考えて下さる方がきっと増える、と思えた。

 

 新しく里親さんへ引き取られた、難しいと言われていた子ども、一(はじめ)。でもはじめは3日で試し行動を出せた。里母美奈の、「ほかの人がいると大人しいんです、わたしと2人のときだけ」という言葉も、実際に現実である感じが伝わってきた。ドラマだとあっという間だけどかなり美奈はがんばったんだと感じた。

 

 唯一無二のお母さんをどれだけ子どもが必要としているか。それが言葉になっていないにもかかわらず、全身で表現する子ども(それを描いてくれるドラマ)。

 施設ではひとりでいた。今回のような表現を見せたい対象も無く、5歳ぐらいになるまで、乳児期から必要な対象であるお母さんお父さんがいないまま、必需な要望を表現せず静かにしている。そして対象者が現れると、試し行動に移すことが出来る、という実際にあり得る事実を、感じた。(家庭養護促進協会の機関紙をまとめた書籍「あしたから家族」にも分かりやすく載っている)

 

 子どもの行動表現で、里母美奈は子どもの虚無をおもい、苦しくなれる。子どもの里親になろうとして、子どもを引きとらなければ実感し得ない、施設では顧みられる事のない(対象者がいないと出来ない)その子の虚無。


 子どもだけの建物にいた、はじめと似た眼と雰囲気の幼い子達の群像を思い浮かべる。しかし、はじめは群像ではなくなり、対象者と出逢った。わたしは対象者と出逢うべきあらゆる子どもが、必ず出逢えますようにと改めて願った。

 

 出逢えない子どもは多いのだ。産みの親御さんがもしもフォスターケアのもとへ子どもを送り出してくれたら、もし果てしない苦悩のさなか、子どもを里親のもとへ、と考えてくれたら。そしたら子どもは施設の群像でなく、あのはじめのようにひとりで静かな虚無の眼を持ち続けることなく、成長していつか、産みのお父さんお母さんへ肯定的な気持ちが沸き起こるだろうと感じた。

 

 ドラマを観て再び施設にいた子ども達を思い浮かべる・・・

 真空の部分のあるわたしの子ども時代をおもうと苦しくなるが、わたしはそれでもこのドラマを、心から有難くおもう。

 施設へ居続けるのはたいへんな虚無であるし、たとえば、羽子板や破魔矢という言葉も覚える機会がなかったり、料理、家・部屋の整備、親族や家に来る友人とのかかわりなど、通常のまあまあの家庭経験がとても不足する。

 

 産みの親御さんは、ものすごく苦渋の決断なんだと思う。ドラマ明日ママがいないでは、むちゃくちゃな産みの親御さんが描かれていた。でも書籍「あしたから家族」では、もっと苦渋が、苦難が書かれている、産みの親の苦悩、離れて暮らす子の苦悩、あたらしい親の苦悩。なんとか見守る家庭養護促進協会の人。

 

 このドラマでは、はじめに対象者が現れ出逢いを果たしたことで、いつかはじめが産みのお母さんに自然に逢えるような感じ、逢えなくても産みの母についての虚無は感じず癒えた気持ちで肯定的に産みの親を思うだろうという感じを持てたし、そのように思わせてくれるドラマを観て、とても有難く、とてもびっくりした。

 

 一喜一憂していてはいけないと思って気持ちを落ち着けて真剣に観た。
里親さんになりたい人も、地域で行動している大人も、施設出身の人にも、観てほしいドラマだと思った。

 

 里親の意思疎通については、

里母は「勝手に父を呼ばず、呼ぶときは明確にそう言ってくれたら、心づもりをするから」と伝え
里父は「なぜ父を呼ばないのか。助け合わないといけないのだし、難しいだろうが短時間、どうぞ呼んでくれないか。はじめはひとまずピアノに興味があるようだし、親族の紹介としてもいいだろうし。」とわかりやすく言い合えば良かったのではと思うが、

 それらは意図して端折り、苦難と現実の戦いと心的な出逢いの部分をクローズアップしフォーカスして伝えてくれた感じ。まだ2話だけどすごいドラマだと思う、やっぱり無理して1話も観ればよかった。
 こういうドラマが出現する社会になってることがまだちょっと、良い意味で、信じられないかも。